由緒(HISTORY)

 人皇第8代孝元天皇の皇子「彦太忍信命」と妻「紀白絲姫命」が勅により、越後の地に下られ、坂本村を切り拓きました。彦太忍信命は荘厳にして秀麗な姿の山を大沼山、(八海山)と名付け、高千穂の峰の天孫降臨の古事を思い、山頂に「天津彦彦火瓊瓊杵尊」と妻「木花開耶姫命」を合祀して祭神とされました。彦太忍信命の御神骸は山頂に、紀白絲姫命の御神骸は御室(山頂より約半里下がれる路傍)に納められ、2霊をもって魚沼大明神として奉られています。
 この4柱の神を八海山の祭神とされています。彦太忍信命と紀白絲姫命の子は魚沼宿禰と称し、次の3世から5世までは「坂本」を名乗りましたが、皇紀587年人皇第11代垂仁天皇の御代に「上村」と称するともに氏神を祀る坂本神社を建立したと伝えられています。現社殿は本殿は昭和2年、拝殿は昭和8年に建立されました。
 八海山には空海も修行に入ったと言われ、護摩修行を終え下山した空海が彫ったと伝承される「聖徳太子像」は今も坂本神社に安置されています。 
 平安時代に編纂された『延喜式神名帳』にも記載されております。(式内社)
 坂本神社を擁する八海山大倉口は、最盛期には県内はもとより東京・神奈川・埼玉などの関東圏や遠くは愛知県などの県外も含めて年間3万人を超す信者が白装束に身を固め、心願成就、特に健康長寿を求めて山頂へ分け入ったとされています。

祭神

彦太忍信命(ひこふとおしまことのみこと)

紀白絲姫(きのしらいとひめのみこと)

天津彦彦火瓊瓊杵尊(あまつひこひほのこににぎのみこと)

木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)